回想記 余話

 

                                    旧工専 8期 ( 昭和24年3月卒)

 精密機械科     森  栄  

 

平成12年6月12日

精密機械森   栄 (精機科) (H.12. 6.12)

1.まえがき

 東京大学、九州大学といえば日本全国知らない人はいないと思うし、久留米大学医学部といえば、たいていの人はどこの都市にあってどういう学校かは想像がつくものと思われる。
 かっては、その久留米にあって久留米大学の前身、「九州医専」と並んでその名を競い合った「久留米高工・久留米工専」といっても、現在ではほとんどの人がその存在を知らない。わずかに、よわい古希を過ぎたその学校の卒業生か、その学校の関係者だけが知るのみとなっている。
 事実、この学校は戦後の学制改革の波に呑み込まれて大学昇格の希望を絶たれ、かわりに「九州大学と合併した」といえばカッコいいが(本当に合併したのであるが)実状は廃校同然の措置であった。

 学校跡には一時期、九大教養部第二分校が存在したが、昭和28年6月の久留米地方大水害による小森野橋の流失も災いして、昭和30年10月には第二分校も福岡へ移転してしまって、残された校舎にはもう学生の姿は見られなくなってしまった。
 学校がなくなった後、その学校跡地、設備を狙って自動車教習所その他の諸学校等からの獲得争いが試みられたが、自分たちの母校が官立の工業技術専門学校とは縁もゆかりもないとんでもない施設や学校に生まれ変わろうとしていることに危機感を感じた、総員2,000有余名の卒業生が立ち上がり、ここに「工業専修大学」の設立を目指して猛運動を展開したのである。
 その後、幾多の紆余曲折はあったが長期にわたる苦しい戦いの末その運動の成果が実り、この地に「国立工業短大」が誕生し、現在の「国立工業高専」へと受け継がれている。

 昭和26年3月、旧工専(久留米高工・久留米工専)が閉校になって既に50年の月日が流れている。
 東京に住んでおられたある卒業生のご遺族の方が、父が卒業した久留米工専とはどんな学校であったのかを調査するため国会図書館を訪れ、資料を探されたが手がかりになるものは何もなかったという話を、とある同窓会の席で耳にしたことがある。
 旧工専は学校閉校時、その書類・資料等は総て九大へ移管され、その後行方不明になったものもあり、当時の資料は新高専にも同窓会本部にもほとんど残っていない。

 また、ある卒業生から「旧工専の卒業生は既に70~80歳の高齢に達し、鬼籍に入った者もいる。50年以上も前のことで記憶も定かでないが、卒業生の回想を基にした『久留米工専史』を作ったら」との要望があり、同窓会本部では平成11年が久留米高工創立60周年に当たることから、その記念事業として、当時の資料を捜し集め調査も行い、さらに卒業生の記憶などを集積した、旧工専の記録「回想記」を編集して後世に残すことになった。

 

2.「回想記」編集委員会・編集小委員会

 平成10年2月14日、第1回の「回想録(仮称)」編集委員会が久留米高専内にある同窓会館(創立40周年記念館)で開催された。
編集委員は旧工専卒第1~10回の各回から各1~3名、短大・高専卒数名と同窓会会長・副会長ならびに事務局関係者数名の合計23名で構成され、池田清太同窓会長が編集委員長に選ばれた。
 名称を「回想記」とし、おきまりの議題のほか、主な話題として「20年誌・30年誌は学校で発行しているが、今回は同窓会として出すから同窓会の歩みを重視すること」や「全国の旧工専中で久留米だけが(旧工専の)記録が残されていないので今回は、旧工専のことについて記録をまとめ、次のステップとして久留米工業短大についても、いつの日かまた皆が集まって記録を纏めておくことが必要である」「第1回生の各科から各1名集まって座談会を開くこと」等の意見が採択された。
 なお、平成10年6月13日の同窓会本部役員会(理事会・評議員会合同)で回想記の作成と予算200万円が承認された。

 平成10年8月から原稿募集を開始し、クラス幹事(旧制)への趣意書の発送を経て会員(旧制)への浸透が図られた。
 「回想記」原稿や、貴重な写真・資料が続々集まりだしたので、その整理に対応し、今後の方針を定めるため、第2回の編集委員会が平成11年1月30日に開催され、原稿資料の集まり状況の報告があり(寄稿件数:約70件)、主に次のような事項が決められた。

1. 印刷会社については、「久留米高専20年誌」・「久留米高専30年誌」・「創立50周年記念写真集」を印刷したのは福岡印刷(株)であり、前回の「同窓会員名簿」を印刷したのは、新写植出版(株)であるがその後倒産したので現在、大分市の小野高速印刷(株)に依頼しており、関東支部結成及び関西支部結成の際にも会員住所の打ち出し等に協力して頂いていることもあり、すこし遠いが、小野高速印刷(株)とする。
2. 目次の原案を決める。
3. 編集内容について
i. 製本:印刷の文字を読みやすくするために「A4判」とし、400頁位にする。
ii. 表紙:表紙には「久留米高等工業学校」「久留米工業専門学校」「九州大学久留米工業専門学校」と三つの名称を並記する。
60年記念は60周年記念とする。
iii. 通史:第1章~第3章とし、高等工業の誘致運動から工業短大及び工業高専設立の経緯までをいれる。
iv. 回想:高専20年誌・高専30年誌に寄稿されたものについても選択掲載する。
同窓会の歩みには、旧工専同窓会・各科同窓会・同窓会久留米工業会の結成等でまとめる。
v. 資料:原爆調査資料を入れる。
4. 編集小委員会の設置が承認された。人選については池田会長と櫻木委員に一任。
5. その他:「回想記」頒布案内については、旧工専の会員全員に出し、短大・高専の会員には、「小森野だより」を配布した範囲内で依頼する。
 平成11年1月から編集小委員会(委員8名)が発足した。
 編集小委員会は原則として毎週金曜日の午後、同窓会館で行われ、平成11年1月から10月までに約40回(延べ40日間)開催された。

 

3.九大資料室
 「九大資料室に旧工専の資料らしきものがある」とのある卒業生の情報により、池田会長・櫻木先生・大隈主務3名で資料室を訪ね、その中から学校創立時の昭和14年から24年までの学校行事等が書かれた「庶務日誌」(2冊)が探し出された。
 このおかげで昭和24年までは詳しい年表を作成することが出来た。ただし10回生が卒業するまでの24~26年の詳しい資料が見つからなかったのが残念である。

 

4.池田先生の図書館通い
 この回想記作成の話が出始めた頃から、諸先輩から「これをまとめるのは君しかいない」と名指しをされて始められたのが、当時の同窓会長の池田先生で、先生はお仕事(高校講師)の合間を縫ってせっせと図書館に足を運ばれ、学校創立当時の官報や新聞記事等コピーを取って整理され、自分でワープロに打ち込んで「通史」や「年表」の原稿をまとめておられたおかげで、その後の編集をスムースに進めることができた。
後日、池田先生はこのときに図書館であつめられた資料を再整理のうえ、回想記資料として「官報」綴・「久留米高工創立(誘致)関係新聞記事」綴・「久留米高工設立問題の新聞切抜き」綴にまとめ、さらに回想記編集終了後に入手された「久留米高工生徒要覧」(昭和17年6月頃発行)を同窓会本部へ寄贈された。(私もコピーを1部頂いた)

 

5.年表の作成

 このたびの「回想記」の製作に当たってもっとも大きな基礎資料になったのは、前述の九大資料室で発見された「庶務日誌」である。
 これによって当時の学校行事のほとんどが年月日を含めて明らかになり、詳細な年表を作成することが出来、またこの年表のおかげで、各卒業生が投稿された回想記の中で記憶違い等による間違った日付け・記事を直すことが出来た。
 年表の編集に当たっては、そのほとんど全項目を池田会長が前もってワープロでとりまとめられ、編集小委員会に提出されたので委員会ではその中から記載事項を選択した。

年表は当時の学校行事の実施記録であり、記録としての回想記の重要な記事であるので記載項目は勿論、年月日についてミスプリントがあっては記録としての価値がなくなるので、前記「庶務日誌」のコピーを(本誌は九大保管)全部借りて家に持ち帰り、家でパソコンとスキャナーとプリンターを使って全コピーを作り、これで何度もチェックを行った。
また、学校行事の年月日と対比する「社会の出来事」欄の年月日についても2種類の辞書の年表等で二重チェックでOKされた年月日を採用した。
 エピソードの一つの例として、昭和19年6月の「B29による北九州初空襲」は、6月15日と16日と両者で違う日付となっていた。調査の結果、別の資料に15日の夜中とはいえ、16日0:30空襲警報発令、その30分後に若松に爆弾投下の記録があり、6月16日を採用した。

 

6.資料整理状況表
 編集小委員会では、初めの頃は各個人から出された記事や通史・年表等の用字・用語の校正作業が多かったが、そのうちに写真・地図・図面・歌・資料などが出揃ってきたので、この本全体の出来上がり工程から考えて、どの図面・どの資料をいつまでに印刷所へ出せばよいのか?が一目で分かるように「資料整理状況表」を6月頃から作り始め、小委員会の隔週程度に改訂版を作った。
 「資料整理状況表」にはこの本の各章毎に項目とその所要頁数、写真版の要否、大きさ、縦横書き、現地撮影の要否、原稿送付の可否、原稿送付済み、印刷所渡し、校正完了等がチエック出来るようになっていたので、小委員会での検討の手助けになったばかりでなく、印刷会社へもこの表を渡して折衝・督促をすることが出来た。

 

7.原稿の校正等

 用字・用語・仮名遣いについては、基本的には内閣告示・訓令によるものとし、さらに新聞等で見慣れたものについては新聞協会用語を使用した。
 特に、通史はこの本の柱ともいうべき文面であるため正しい用語に統一したが、個人で書かれた回想記には昔の懐かしい用字・用語が多く、それはそれなりに我々の年代の者にとってはその方が実感として迫ってくるものがあるので、あえて現代用語へ修正しなかったものが多い。

 有機化学の冨安弥之助・教授に関する記事は卒業生各個人の回想記のほか各所に多く出てきた。トミの字が「富」と「冨」、上に点があるものとないものがおよそ半々ぐらいあった。同じ文字の修正ではこの字が一番多かった。
 「1ヶ月・1ヶ所」のヶは正式には「1か月・1か所」であるが、一般的に新聞等で見慣れている「新聞協会用語」に従い「1ヵ月・1ヵ所」とした。(助数詞の1ヶは1個)
 また、( )内の文末の句点については(何々となりました。)と句点を入れても間違いではないが「新聞協会用語」に従い(何々となりました)のように句点をはずした。

 

8.第6回校内駅伝優勝科が二科あるとは

 化学10回生の山北氏から「旧工専最後の各科対抗駅伝に優勝す」という原稿を頂いた。
前出の庶務日誌その他の資料を整理し、校内対抗駅伝大会の記録を整理してみたところが、下記のようになっている。
第1回    記録なし
第2回 昭和19年 1月29日(土)(クラス対抗)優勝 精密機械科1年
    昭和20年        なし
第3回 昭和22年 1月22日(水) 優勝 ?
第4回 昭和22年12月13日(土) 優勝 化学工業科(庶務日誌記載)
第5回 昭和23年11月27日(土) 優勝 ゴム工業科
第6回 昭和24年11月26日(土) 優勝 化学工業科 ゴム工業科

 第6回の優勝は山北氏の原稿から、化学の優勝になるはずであるが、一方、ゴム科発行の「結晶」誌・第1号(昭和25年発行)には「学園行事だより」で昭和24年11月26日第6回駅伝はゴム科優勝と書いてある。
 編集小委員の櫻木先生(化学10回)に結晶誌の記事を見せて、調査をお願いしたところ先生もびっくりされて再調査の結果、多くの人々の証言と共に優勝杯・賞状を手にした化学9・10回生の記念写真があり、化学の優勝が確認された。

 

9.回想記の題字
 回想記の表紙に掲げる標題「回想記」の字体は当初、とりあえずワープロで打ち出した行書文字で出発したが、この本は卒業生の手で作るという理念から、それに最も相応しい第1回の卒業生で書家の寺崎圓太先生(第2代同窓会長・編集委員会小委員)の筆によることとなった。

 

10.学徒動員先調べ
 昭和16年8月8日、文部省は学校報国隊の編成を指令し、後に勤労動員のための組織となった。昭和18年6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」が決定し、これに基づき本校では、同年8月大刀洗航空廠掩体壕作り(10日間)の校外勤労奉仕作業(1・2年生)が開始された。
 昭和19年3月、学徒の通年動員実施が決まり、5月には本校生徒にも動員令が下された。3年生(4回生)はそれぞれ就職内定先へ、2年生(5回生)はクラス毎に軍需工場や炭坑へ動員されて行った。翌20年1月には1年生(6回生)が行き、さらに4月入学の新1年生(7回生)は入学式もないまま別命があるまでは当分の間そのまま中等学校時の動員先で勤務するよう命じられた。その後 、動員先の決定を待ってクラス毎に次々と工場へ赴いた。
 また、動員先も工場や軍の都合で1カ所に止まらず、移動するものもあり、学校の記録にもそれらの詳細な記事はなく、その全容を把握出来なかった。
 編集委員会では、同窓会クラス幹事の方を中心に4~7回生へ会長名で調査書を送り、動員先の再確認を実施したり、電話による聞き取りを行い多数の証言を頂いた。

 

11.原爆記事

 平成9年8月9日付けの西日本新聞でも報道されているが、戦時中、学徒動員により原爆投下直前の長崎市の軍需工場「三菱長崎兵器製作所」へ赴き、被爆した久留米工専生の状況については、長い間その全容がわからないままになっていた。
 被爆して助かった一人が被爆者手帳を取得するため、その証明するものを探したが、学校にも同窓会にもないことが分かり、同窓会事務局で当時の状況を調査してほしいとの依頼があった。
 長崎に動員されたのは旧工専7回生の機械科及び精密機械科との情報を得た同窓会本部は、平成6年アンケート用紙を両学科全員153名に送付したところ、53名の方から回答があり、当時の被爆状況が判明した。
 しかし、実際に長崎に行かれた方の人数や姓名等の全体像がつかめずに苦慮していたが、学校の教務の倉庫から「昭和20年入学予定者名簿」が発見された。
 さらに、精密機械科7回生で被爆された入江俊二氏が同窓会本部から送って頂いた「昭和20年機械科3組入学予定者名簿控」や「アンケート調査結果」をもとに、関係者と連絡を取り合い、被爆された方の正確な姓名や各個人の情報等について調査を行い、詳細な「長崎被爆体験者名簿」を作成されていた。

 一方、長崎出身の化学工業科5回生の田栗末太氏からは、長崎造船所資料館から入手された、終戦後三菱重工が調査記録した「戦災殉職者の霊位」の中の久留米工専関係殉職者(教授1名・生徒8名)の名前の部分をコピーしたものや、三菱長崎兵器製作所及び西郷寮の被爆の資料、その他の資料などが同窓会本部あてに届けられていた。

 回想記の原爆記事のとりまとめに当たっては、当初は前記アンケート調査を担当された大隈主務が原稿をまとめておられたので、私はそのお手伝いをしていたが、「原爆被災者調書」を回想記に掲載するためには更に詳しい調査が必要なことがわかり、そのうちに大隈主務が多忙のために後は私が引き継いで調査を進めることになった。
 毎日のように家から電話をかけたり、主だった方に手紙を出したりして、特に被爆の有無のはっきりしない人の消息を聞いて回った。
 今回発行される「回想記」は国会図書館にも納める公式の記録であり、被災者の氏名に間違いがあってはならない。またこのような調査はおそらくは今回が最後になるであろう。
などいろいろと考えてくると事の重大さがひしひしと感じられてくる。そのため多くの方々からの証言を頂き、被爆されたことの確認は少なくとも二人以上の証言が得られた人か、または、一人の証言であっても一緒に連れ立って逃げたことがはっきりしている人のみに限った。
 調査の過程で前記の「昭和20年機械科3組入学予定者名簿控」に記載されている方々の中で、ご本人やご遺族の証言で「長崎には行っていない」という方も数人あった。やはり、この名簿に記載されている方で2名の方が最後までどうしてもはっきりしない。一人は平成5年に既になくなられており、ご家族に確かめようと何度も電話したがどうして繋がらない。もう一人は10数年前までは大阪に住んでおられたが、現在消息不明になっている。

 現在残されている三菱重工の資料「長崎兵器製作所史稿」によれば「被爆時の三菱兵器の人員」で動員学徒数4,080名でそのうち久留米工専39名となっている。
 今回、調査した結果の最終集約数は、上記のはっきりしない2名を含めて「長崎に行った人は生徒が39名、教官が2名の合計41名」となった。前記三菱資料の39名というのは生徒だけの数なのか教官を含めた数なのかは分からない。
 もし、このはっきりしない2名の方が長崎に行ってなかったとしたら、生徒・教官合計で39名になり、三菱資料の久留米工専動員学徒数と一致する。かといって、このはっきりしない人を確たる証拠もないままに削ってしまって三菱資料の動員数に数あわせをしてしまうことは、もし長崎に行かれていたとしたら、大変な冒涜となり、大変失礼なことになる。
 同窓会が発行する公式文書としては、調査した結果をありのまま提出することにし、原爆記事の長崎に行った人の数は「生徒39名、教官2名、合計41名」とし、「原爆被災者調書」の中のこの2名の方の氏名には被爆を確認した印を記入しないことにした。
 また、当初の予定では被爆体験者の記事は、紙面の都合もあり前記アンケート調査に記載されたものだけを掲載するようにして原稿をまとめ、該当者の方へ校正のお願いに送付したところ、精密7回生の古賀正治氏が長崎市役所に提出された被爆体験記はその当時の状況を的確に表現されているので、この記事を是非掲載して欲しいとのお話があり、またご本人の承諾もあって、あの原爆被災のなまなましい悲惨な情景が掲載された。

 

12.フロッピーディスクの活用
 印刷所へ原稿を出す場合、その後の校正を考えるとフロッピーデスクにして出した方が印刷間違いが少なく、かつ校正も手間が省けるので、フロッピーで出せるものは極力フロッピーで出した。(目次・通史・座談会・年表・同窓会の歩み・動員先・原爆記事・被災者調書・個人原稿の一部等)

 

13.第○期生と第○回生
 久留米の同窓会員名簿を見ると、最近のものはほとんど卒業回が「第○期」となっている。古いものでは昭和42年1月発行が「第○回」、その前の昭和36年1月発行では「第○期」とまちまちである。
 これに対して、他の学校ではほとんど総てと言っていいほど「第○回」である。
 この件について調査の結果、文部省管轄の学校の場合は「第○回」で、「同期の桜」の歌で有名な旧陸・海軍関係の学校では「第○期」が普遍的に使われており、今回の回想記では 「第○回」を使用することが小委員会で決まった。

 

14.編集方針の一部変更

 当初の計画では、個人の回想記の記事は原則として一人1ページとし、ページの一番上に、縦3.7センチ×横17センチの枠内に顔写真と標題、筆者名を入れ、記事はその枠の下に(横書き)縦2段組(写真を含めて約1,500字)とすることで進められた。
 原稿が出そろってくるにつれ、各人の原稿が1ページに収まらないもの、足りないもの、原稿は丁度1ページに収まっているが写真を入れるとオーバーするもの、など種々のケースがあり、全原稿を集約してみたところ各ページの余白が可成りの量に達し、さらに当初予定の200ページを可成りオーバーする見通しになってきた。
 そのため、当初の予定を一部変更して「一人1ページ」にこだわらず、余白を少なくするため、各人の記事を出来るだけ余白をつくらずに続けて記載することになった。

 印刷所から帰ってきたゲラを見て一寸ばかり考えさせられた。
各人の記事がページの最上部から始まる人や中央部付近から始まる人は何も問題にすることはないが、ページの下部の方から始まる人は、自分の顔写真がページの最下部付近にくるので、何かしら自分の頭を上から押さえつけられているように思われて、感じが悪い。
見た目の感じの問題ではあるが、折角よい本を作ろうとしているので何とかしたい。
 それに、原稿では10人の名前を1グループとして纏めて上から10行に綺麗に並べて書いてあるのに、出来てきたゲラでは、10人の名前がページの左側に二人、右側に二人、次のページに6人とバラバラに切り離されている。これでは原稿を書いた人の意図が全く無視されたものになってしまっている。

 そこで、下の方から始まることになる原稿は、下から何行目までなら見た感じとして許されるか?(つまり、1ページの余白を最大何行に取ればよいか?)
 また、全原稿の総行数は既に決まっているので、この余白行数を決めることによって、この本の総ページ数はおのずと決まってくる。
 以上を検討の結果、記事として11行(余白として18行)を算出し、あとは全原稿の行数計算を行い、誰の記事は何ページの何行目から何行目の間に収まり、何ページに何行分の余白が生じ、総ページ数が何ページになるか?計算した。
 結果は、各ページ見た目にもそうおかしくない出来で、また、総ページ数も当初の予定どおり丁度200ページにきっちり収まった。

 

15.歌の挿入・たにし殿
 この本に挿入する歌として何々をあげるか?「逍遙歌」「応援歌・仰雲明けて」はすんなりと、巻頭部分の頁の区切りとしても活用することが決まった。次に「機械科の歌」「精機科の歌」が出てきたが、他の科の歌が出ない。不思議に思って各科の卒業生に聞いてみたが、どの科も科の歌は無いとのことで仕方がない。ゴム科の結晶誌には「学生歌」として「精機科の歌」の一部が置き換わったものが掲載されているので、これはそのまま「学生歌」として掲載した。
旧工専の人なら誰でも運動会や宴会の時に歌い踊った「たにし殿」も忘れられない。この歌の文句で本誌掲載はどうかと心配したのが「ノミのキン玉、シラミの腹わた」の部分、ここは「ノミの○○○………腹わた」として原稿を提出したところ、小委員の先生から、「この歌は久留米地方の民謡としておおやけの本にも書いてあるよ」と楽譜付きのその本の頁を頂いたので、(久留米地方の民謡とは知らなかった)意を強くして楽譜付きで掲載することになった。
 歌の記載については、頁の余白を利用して挿入するという基本方針が決まったので、ほかにもまだ幾つかあったが、あの程度になった。
 なお、「機械科の歌」と「精機科の歌」にはそれぞれ楽譜があるが、紙面の構成上割愛した。(楽譜も貴重な資料であるので同窓会本部で保管されている)

 

16.目次に筆者全員の氏名を記載

 当初、目次原案は「高専20年誌・30年誌」の例をモデルに編集が進められてきた。初めの頃は一生懸命原稿を書いた自分の名前が目次に現れないのは、ちょっぴり淋しいなーというくらいの感じで、用字・用語の修正に気を取られていた。
 そのうちに、何度も見ているうちに、やはり何かおかしい。このままでは目次に筆者の名前が出るのは、同窓会長と学校長の氏名だけである。それに比べて本誌の総筆者数はなんと約100名の多数にのぼっている。
 特に、今回の回想記は卒業生の手で作るということが主眼になっている。卒業生が総力を挙げたという証のためにも目次にその名が欲しい。

 一般的な書籍・雑誌の場合でも「標題・筆者名・頁」はほとんど目次に明記されている。
ちなみに、本誌と同じような「山口大学工学部50年」誌や「南満工専回想録」などを調べてみたところ、やはり全筆者名は目次に書いてある。
 筆者名・頁は記載するにしても、各自の標題まで入れると目次の総頁数を増やすことになるし、目次の行数があまり多くなると、目次の焦点がぼけてくるおそれがある。
 各自の標題はそれぞれ違った題がついてはいるが、煎じ詰めれば「回想記」ということに集約されるので、標題は入れないことにして、記載方法については、われわれが毎年発行している「なかまの記録」の頁の記載法を使うことにより、原案と同じ3頁目次の中に全筆者の氏名を収める事が出来た。

 

17.発行年月日 11・11・11

 この本の完成目標としては、当初は平成11年10月頃の予定で編集作業は進められていたが、その後、平成11年は久留米高工創立60周年と、同窓会久留米工業会が結成されて25周年に当たることから、11月頃に記念祝賀会が開催されることになった。
 11年6月12日の同窓会定期役員会において、記念祝賀会の日取りが11月13日に決定された。このため回想記の発行は必然的にこれ以前に出さないと意味がない。 また、一方本の発行は校正等に手間取り、予定の10月中発行は難しい情勢となってきた。

 本の発行日付けとしては一般の常識からは実際の発行日と相当離れていてもおかしくはないが、11月10日前後であれば間違いなく発行できそうである。以上の見通しから、それでは11月1日よりも目出度い1の字が六つ並ぶ平成11年11月11日が発行日となり、13日の祝賀会の日の前には完成した本が同窓会本部へ届き、13日には祝賀会場において、出席者の皆さんへお届けすることが出来た。
 編集者としては、欲を言えば少なくとも祝賀会の1ヵ月前ぐらいには出席者のお手元に届き、家で本を読んで来られて、祝賀会のおり学校時代の思い出をいろいろと話題に出来たのでは、と思うと少し残念でした。

 

18.大量の刷り直し

 発行期限も間近に迫ってきた頃、表紙だけが正規のものでない完成品の見本が最後の校正、確認のため各編集小委員(8名)の自宅宛送られてきた。
 まず、ぱらぱらっとめくって見て驚いた。カラー写真は綺麗に出来ているが、白黒写真は全部どす黒く、記念撮影の集合写真は総てといっていいほど各人の輪郭線が分からない黒一色になっている。全体に印刷の黒色が濃過ぎるのである。今まで校正で見てきた色と全く違う刷り上がりである。これでは商品にもならない。これまで何べんも何べんも校正を繰り返してきた苦労は何だったんだろう。 

 とにかくこれで全部印刷されたら大変なことになる。すぐにでも印刷を止めなければならない。完成期限は迫っており、編集小委を開く余裕もない。早速、電話で池田会長と相談をする。池田会長も強い調子で憤慨しておられる。「とにかく、このままでは受け取れない。刷り直しを至急に要請する」として、印刷所へ電話を入れるが、こういう時に限って日曜日である。いくら電話をしても誰も出ない。印刷会社の本社だけでなく各地の事業所(東京・福岡までも)電話をかけるが、どこも出ない。
 池田会長と電話で相談のうえ、「見本と違う、刷り直してもらわないと受け取れません。至急対策をお知らせ下さい」と会長名で工場宛FAXを送付した。

 本の製作方法として、広い1枚の紙へ8ページ分の印刷をした後これを四つにおり、綴じる側を糸で綴じて、見開き側と上下を裁断するので、もし刷り直しの必要なところが1ページであっても8ページ分の刷り直しとなる。
 翌日になって、工場と折衝したが、印刷は既に700部完了していたとみえて、こちらの要望どおりに写真の刷り直しをするためには、(1ページ変えると8ページ変わるので)計算した結果、約半分の刷り直しが必要になるというので種々調整の結果、56ページ(約1/3)の刷り直しとなった。
上記の結果、顔写真がくすんだままのものや人物の輪郭の不明瞭な写真が可成り残されたのが残念である。

 

19.回想記資料等で今回同窓会本部へ寄贈されたもの
(1)結 晶 誌 (創刊号) [昭和22年発行] 河野利男氏(ゴム科8回生)
(2)結 晶 誌 (第1号) [昭和25年発行] 河野利男氏(ゴム科8回生)
(3)結 晶 誌 (第2号) [昭和26年発行] 河野利男氏(ゴム科8回生)
(4)精密機械科 名簿    [昭和26年発行] 山口圭一氏(精機科8回生)
(5)精密機械科 名簿    [昭和30年発行] 山口圭一氏(精機科8回生)
(6)報國團 團報 (創刊号) [昭和18年発行] 田中哲哉氏(精機科1回生)
(7)久留米高等工業学校生徒要覧
                 [昭和17年発行] 田中正人氏(機械科6回生)
(8)官 報 綴      [昭14年~24年] 池田清太氏(精機科5回生)
(9)創立(誘致)関係 新聞綴 [昭13年~14年] 池田清太氏(精機科5回生)
(10)設立(誘致)問題新聞切抜[昭13年~18年] 池田清太氏(精機科5回生)

 

20.編集期間内の学校及び同窓会のできごとなど
1. 学校長の交代:谷口 宏校長より栁 謙一校長へ。
2. 同窓会副会長(編集委員会副会長)の交代:大賀偉生氏(高専1回生)から笠井俊樹氏(高専1回生)へ。
3. 編集委員の交代: 庄篭秀一氏(機10)が2月16日病死されたため、代わりに江下和彦氏(機10)へ。
4. 講堂の解体撤去 新教室の建設 : 生物応用化学科(元の工業化学科)の新校舎建設のため、旧工専時代からの講堂が6月に解体撤去された。
また、一般校舎も古くなったため、新しく建て替えられることになり、このため同窓会館の大会議室を夏休み中に教室として使うことになった。

 

21.回想記贈呈先

 このたび、「回想記」出版のきっかけとなったものの一つとして、国会図書館に久留米工専の記録がなかったといういきさつもあり、完成後は国会図書館に納めることを目標にして、立派な本作りが進められた。

 また、今回作られた「回想記」の残存年数を考えた場合、「回想記」を購入される方としては旧工専の卒業生がほとんどであり、若い人でもみな古希を迎える年代の方々である。現在ご夫婦がご壮健であって、もしご主人が先立たれたとしても、すくなくともご夫人の存命中は当家の書棚に鎮座することなることと思われる。
 さて、その次の時代になると、その子供さん方がそれらのものに関心の深い方や大事にされる方であればそう簡単には処分されることもあるまいとは考えられるが、一般の家庭では、ほとんど関心はなく、家の改築でもあれば間違いなく処分されるものと考えられる。
 そうなれば、ここ十数年で大半のものは失われてしまい、残ったものでも30年もすれば珍しい存在になるのではあるまいか。

このように考えると、この「回想記」を図書館に寄贈しておけば、きちんと整理されて半永久的に保存されることになる。

 現在の久留米高専は、中学を卒業してから入学することになる。久留米高専を目指す中学生にとって、この学校はどういう歴史をもった学校であるのか?学校の図書室にこの本があれば、前もって自分で調べることもできる。
 以上のほか、編集小委員会におい種々検討された結果、約100冊の本がそれぞれ下記のところへ贈呈された。

1. 学校関係
九州大学 工学部、同資料室をはじめ熊本大学工学部など旧工専に関係ある新制大学工学部。久留米大学医学部。九州内の新高専各校等。
福岡県・福岡市・久留米市教委。久留米市内の各中学校。
2. 図書館
国会図書館、福岡県立・福岡市立各図書館、久留米市民図書館をはじめ大牟田・柳川などの久留米市近郊の市町立図書館。
3. 官公庁・会社関係
福岡県(知事)、久留米市(市長・市会議長・商工会議所会頭)および大牟田・柳川などの久留米市近郊の市役所(市長)。
ブリヂストン・アサヒコーポレーション・月星化成等の各社。
西日本・朝日・毎日・読売の各新聞社
4. その他
久留米高専に10部。大久保教授など執筆された諸先生。執筆者以外のご健在の旧教官。編集小委員会委員(8名)。

 

(贈呈本の送り状)
贈  呈

 久留米高等工業学校(久留米工業専門学校)は、昭和14年5月久留米市小森野町に、当時戦争遂行にあたり工業技術者養成のための国策校として創設されました。
 昭和20年8月の終戦までの前半は戦争一色で明け暮れ、後半はインフレ・食糧難の困難な世代を過ごしました。戦後の学制改革で念願の大学単独昇格はかなえられず、やむなく九州大学と合併、新制九州大学となり、昭和26年3月 第10回生の卒業をもって閉校となり、僅か12年でその歴史を閉じました。
 今年は久留米高等工業学校創立60周年に当たります。同窓会ではこれを記念して、齢70から80の老骨ながら記憶をたどり、卒業生の手で久留米高工(久留米工専)の記録『回想記』を編纂して後世に残すこととしました。
 このたび、いささかでも久留米高工の歴史をご理解頂き、その跡地に設立されました 国立久留米工業高等専門学校発展のためご支援を賜りますよう、ここに『回想記』を贈呈いたします。 

     平成11年11月吉日
        同窓会久留米工業会 
           会 長   池 田 清 太

 

22.新聞による報道
 贈呈本の送付にあたっては、市役所、新聞社や恩師のところへ、池田会長・櫻木先生・広尾先生・大隈主務が手分けして持参された。
 回想記の新聞記事は、朝日新聞12月3日朝刊、西日本新聞12月7日朝刊のいずれも筑後版に掲載され、多くの人々の目に留まった。

 

23.おわりに

 このたびは、はからずも編集委員会の委員の一人として「回想記」の編集に携わらせていただき、たいそう光栄に思っています。 
 学校の実態は消滅していても、当時、約12年にわたり、2,600余名の若者の青春の血をたぎらせた「まなびや」の存在を記録に残すことが出来たことを心から喜んでおります。
 この次は、十数年後になろうかと思われますが、「久留米工業短大の回想記」が同窓会の尽力で作られますよう期待しております。

編集小委員会委員として一緒に仕事をさせて頂きました 池田清太会長(精5)・寺崎圓太前会長(機1)・辻 實先生(化4)・横溝 薫先生(機5)・高橋清太先生(化7)・櫻木雄二郎先生(化10)・大隈武敏主務(事務局)には長い間たいそうお世話になり、良い仕事が出来ましたことを厚く御礼申し上げます。